つれづれ雑記

大叔父さん(すい臓がんステージ4)のお見舞いに行き、ありがとうを伝えることができた

2018年9月8日(土) 

昨日急遽決まった藤沢の大叔父さんのお見舞い。妹夫婦が私の身体を気遣って車で来てくれて、私をピックアップしてくれて病院まで行った。ありがたい…。

 

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お見舞いの前にカフェヒュッテという可愛いお店で3人でランチした。雰囲気もいいし、山の本も置いてあるし、何よりお料理がとても美味しくて感動した。

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こういうお店があるって、辻堂って素敵♪と思う。胃腸リハビリ的にはまだフルで食べることは出来なくて、食べるものも厳選しているけれど、そんな私にも優しいメニューであった。

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さて病院に着き、7階の緩和ケア病棟へ。すずらんという名の部屋に大叔父さんはいた。会うのは一年ぶりくらいかな?何年も乳がんを患っていた大叔父さんの奥さんのお葬式以来だ。さすがにずいぶんやせて小さくなっちゃっていた。体格のいいおじさんだったけど、手足がびっくりするくらい細くなっていた。

 

確かにうつらうつらとしていて眠っているようにも見えたけれど、体を起こしてくれ、と言うので背中を起こしてあげると、しっかりと顔を見せてくれた。手を握る力はとても強いし、妹と腕相撲みたいな真似をしてもすごく強い力はあるし、顔色はそんなに悪くない。けど声はやはり小さいし、何よりすぐ目を閉じて眠るような感じになってしまう。手は時々動かすし足も動くんだけれども、目が自然と閉じてしまうから ちょっと弱々しく見えてしまう。こうやって人は終わりに近づいていくんだな…という感じが大叔父さんの身体から伝わってきた。

 

よくここだとわかったね、と言われて、どこからの情報?とも聞かれた。父さんからだよ、って答えた。私がカロリーナで、こっちがその妹で、その旦那さんがこの人だよ、っていうことが分かっているかどうかは不明だけれども、最初にそんなふうに聞いてきたということは北海道の関係の人だっていうことはわかったのかなと思う。

 

こんなふうに急に入院して、私たちびっくりしてるんですよ!と言うと、何も急にではないんだ~、と。出たり入ったりしてたからな、と言っていた。これまでの闘病の経緯は詳しく聞いていなかったけれど、そうなのね、入退院を繰り返していたのかな。

 

そして何歳になったのか聞いたら88.8歳というわけのわからない数字を言い出した(笑)

けれども実際は89歳で、次の2月で90歳になるということのようだった。そうかまだ90歳手前だったんだね。人生100年って言ってもまだ100歳には届かなかったのね…。

 

結局、余命いくばくもないというふうに聞いていたけれど、確かにそんな雰囲気ではあった。足をさすってあげると体温はとても暖かくて、でも少しむくんでいるようでもあった。そして腹水でお腹が膨れ上がっていた。しんどいよね、と聞いたら何度も細かく頷いていた。痛くはないの?と聞くと、痛くはないと。でもやっぱりしんどそうだった。

 

そうだよね 私のしんどさとは比べ物にならないと思う。強い薬で痛みを抑えているだけだろうから、本当はとても体に負担がかかっているのではないかと想像した。

 

大叔父さんの意識があるうちに思いを伝えたいと思って、私は今日ここに来た。だから、こう言った。

「大叔父さんのおかげで世界がとても近くなったし、世界中の国々のことを身近に感じることができたよ。私が海外に目を向けるようになったのは、大叔父さんのおかげです。ありがとう!」と。

 

本当にそれはそう思うのだ。大叔父さんが、マレーシアだフィリピンだインドネシアだ…という駐在経験を昭和の時代に経験し、そしてその国々の雰囲気や空気を北海道の田舎の実家まで届けてくれていたことは間違いなくて、私はそんな大叔父さんを見て世界は広いんだっていうことがわかったの。

 

その後の祖父達と一緒に巡ったといういろんな海外旅行もそうだけれども、そういえばブラジルまでも行ったと言っていたし。とにかく世界中を歩いた足なんだと思うと、さすっていると涙が出てきた。これまでずっといろんなところを歩いてきて、最後にはこうやって病院で横になって終わっていくのかな。そう思うとなんとも切なくて。

 

私にとって大叔父さんがもたらしてくれたもの、世界は繋がっているという感覚。それは田舎の少女の私に与える影響はとてつもなく大きかった。私が選んだ大学での学びは「国際関係学科」となった。その原点は大叔父さんだ。だから…すごくすごくありがとうと言いたいし、もうあまり辛い思いをさせたくないし、このまま少しずつ楽になればいいね、って声をかけた。いま身体は病気と闘っているんだね、しんどいけどね、って精一杯わたしなりのメッセージを伝えた。涙が出そうになりながら。

 

結局1時間近く、その場を去りがたくて。ずっと手を握っていたかった。薬指を絡めて約束のようなポーズもした。何の約束だかわからないのだけれど。

 

帰りがけに、ふっと一度背中を起こして、さっきまでそこに写ってたんだーとかなんとか訳のわからないことを言い出した。何が写ってたの?テレビ?と聞くと、あれ何て言った?美瑛だったかなぁ、と言う。北海道をルーツに持つ私たちと話をしていたせいか、どうやら大叔父さんの脳裏には、美瑛の美しい風景が見えていたのかもしれないね。

 

ちょっと前の7月には、大学生のお孫さんたちも一緒に、家族みんなでインドネシアに行ってきたみたいで。その写真がサイドテーブルに大事そうに置いてあった。そしてその前の5月に北海道の実家に来た様子もアルバムにたくさん収められていた。余命がわかってから、大叔父さんは精力的に思い出の地を歩いて来たんだなぁ。それにしても、7月に海外旅行で、いまは9月で、大叔父さんは命のカウントダウンに入っている。なんだか、その時間感覚が、どうにも不思議でならない。ひとは、数か月で、こんなふうに変わっていくものなのか。

 

もうこれで生きている大叔父さんに会えるのが最後かと思うと、別れ際は本当に涙が出たし、なんだか寂しいし、でも今日ここに来られて良かった。会えて良かったとも思う。少し私の入院のタイミングがずれていたら、私はもう大叔父さんに会えないままお別れかも知れないから。

 

今まで本当にお疲れ様だったね、本当に今までありがとうと最後にもう一度言った。そうすると、大叔父さんもありがとうって返してくれた。

 

長年暮らした江ノ島が近い町で、遠くに江ノ島を眺めながらの闘病の日々。それを大叔父さんは希望した。そんなおじさんの様子は、ほっとして、満足そうにも見えた。

 

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